調べもの╎牧野富太郎

 

 

 


こんにちは。音です。

 

今日はいま話題の【牧野富太郎】博士について調べてみました。
NHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公ですね。
それではいきましょう!

 

 

牧野富太郎について

 牧野博士は1862年高知県に生まれました。幼名は成太郎。幼い頃に両親を亡くし、祖母に育てられました。「日本の植物の父」と言われ、多数の新種を発見、その命名も行った植物学者です。
 日本の植物分類学の基礎を築き、『大日本植物志』や植物愛好家必携の書『牧野植物図鑑』を刊行しました。研究と普及活動の集大成といえる『牧野日本植物図鑑』は、現在でも日本の植物の約300種は牧野博士が付けた学名が使われています。
 1957年、94歳で亡くなるまで日本全国を周り、膨大な植物標本を製作しました。
 彼の性格は「一つのことに没頭して研究」、他にも「頼まれた仕事はしなくて、頼まない仕事に熱中する第一人者である」「植物の研究で社会や国家のためにご自身を犠牲にされたことには頭が下がる思いだ」と言われていたそうです。

 

東京での生活(18歳-20歳)

 「理由というのはないんです。ただ植物が好きなんです」という言葉を残している牧野博士。植物学に目覚め、東京で研究生活を始めました。
「赭鞭一撻 (しゃべんいったつ)」、つまり確固たる決意や自分はこうありたいという強い思いが込められた言葉にならい、植物の研究に対する心構えを整理した15ヵ条を書き記しました。

・より多くの草木を観察しよう。
・本をたくさん読んで知識を身に付けよう。
・研究の成果にふさわしい、しっかりとした図や文章を学ぼう。
・植物を学ぶ友をもとう。

このように記しました。

 

 

苦難と貧乏

 牧野博士は26歳の時に結婚します。彼が貧乏であった最大の理由は、ホンノ購入にありました。植物研究のために金を惜しまず極度の困窮に陥ってしまいます。食事にも事欠くような暮らしの中でも、夫人は博士が安心して研究に打ち込めるようにと心を尽くしました。

 東京で博士が植物学を学び始めた時代は、日本の植物分類学は草創期にあり、国内で発見された見慣れない植物の同定を海外の研究者に委ねていました。『植物学雑誌』に博士の名前が掲載されたころは、博士をはじめとした日本の植物分類学者による植物の同定や記載の研究水準が向上し、日本の即物分類学研究はヨーロッパの水準に引き上げられました。

 

日本の植物分類学の進歩

 植物の特徴から、「科」や「属」などのグループに分け名前を付ける学問を分類学といいます。植物の場合は花や葉、根のつくりなどをもとに整理されます。学名は1種に1つのみ与えられる世界共通の学術的な名前のことです。

 牧野博士の名が世界に知れ渡った出来事に、
・日本において、日本人で初めて進取に「ヤマトグサ」と学名をつける
・世界的に希少な水生の食虫植物「ムジナモ」に花が咲くことを発見
 したことが挙げられます。

 牧野博士は日本各地を回り、標本を採取して調べていました。生涯で約40万もの膨大な標本を採取しました。

 

卓越した画力

 植物の特徴を的確にとらえ、植物の全貌を精緻に描いた図を「牧野式植物図」と呼ばれています。全体図だけでなく、生殖器官や栄養機関などの部分図ないし解剖図、時間の経過による形態の変化などがバランスよく配置されています。

植物への向き合い方

 「植物は自分の恋人だから、恋人に会いに行くときは正装をする」という考えをもっていた博士は、植物採集に行くときにも、真っ白なワイシャツにジャケットを着ていたそうです。それほどに真摯に植物と対峙していたことが窺えるエピソードです。



 本当に、全身全霊で植物を愛し、向き合い、学び続けた人生であったことがわかります。
 誰しもが、一歩外に出れば必ず目にする植物。だからこそ、そこに注目すること、研究対象にすることは、とても難しいようにも感じます。
 植物が人間に与える影響は無限大。なんだか、いとおしく感じる気持ちがわかるような気がしてきました。

 物への感謝も忘れずにいきたいものです。


2023.05.27.